Where I am now

思ったこと考えたこと感じたことを書き留めることで自分の現在地(Where I am now)を知るための備忘録的役割を果たすなにか

意識ある?日々の暮らしに

おとといの午前ってなにやった?

 

昨日の晩ご飯なんだっけ?という、記憶力的な話ではなくて。

 

毎日がルーティンワークになってない?

同じような時間に起き、同じ場所へ行き、同じように帰宅し、寝る。

 

無意識に家の鍵をかけるようにすべての動作をおこなってはいやしない?

 

ちがうでしょう。あなたの行動・行為にはあるでしょう

理由や目的が。

 

それがあるからこそ動くんでしょう。

 

同じことの繰り返しに思えてしまうかもしれないけれど、

一度たりとも同じ時はめぐってこない。

 

自分が何をしたくて、どういう行動をしたのか

 

意識があって当然。

 

さあ、明日はなにをやろう。

自分のことを頭いいと思っている人が陥りがちなこと

 自分がわかっていること、話の前提を相手が知っているものとして話を進めようとすること。

 

相手ができないでいると、「こんなこともできないの?」という目で見てくる。

 

成程、特別あなたの頭がよくて、凡俗凡庸なわたしには到底到達し得ないところいるのでしょうか。

 

そんなことは、万に一つもあり得ません。

 

彼等とわたし、その明確な違いは、「答えを知っているかどうか」で、それ以上でも以下でもないでしょう。

 

彼等は以前からその問題を経験している。または答えを聞き知っている。だからこそ、ゴールがわかっているからこそ途中の筋道も明確に見えてくるというもの。

初見の迷路ゲームをやっていて、右に行こうか左に行こうか悩んでいるわたしに、すでにそのゲームをクリヤーした人が、ここの正解は右に決まっているじゃないか、と指摘するのと変わりませんよ。

 

勘違いをしてはいけない。あなたの「アタリマエ」はほぼすべての人にとっては当たり前ではないのですよ。

 

そのことをわきまえなければ、自分の頭が良いのだと酔いしれて、他人に物事を適切に伝えることのできぬ無能で迷惑な人種になってしまう。

 

つねに相手の立場によりそった視点を持たなければいけませんね。

天狗芸術論考[第一回]巻之一 2行しか進まなかったの巻


天狗芸術論・猫の妙術 全訳注 (講談社学術文庫)
 

第一回 天狗芸術論考

 少しずつやっていきます。構成としては、原文に対し簡単な訳をつけ、それに対し解釈していくというものを考えています。講談社学術文庫の天狗芸術論を参考にしているため、訳に関してどうしても本書の役に引っ張られてしまうと思います。

 

第一段落

原文

 

 大意

 人は動物なり。善に動かざる時は必ず不善にうごく。この念ここ生ぜざればかの念かしこに生ず。種々転変して止まざるものは人の心なり。

 

 人は動物である。善い行動をしないときは必ず善くない行動にはしる。とある思い(意識)がここに生じていなかったら別の思い(意識)がどこかに生じている。様々に変化して一定にとどまっていないものが人の心というものである。

解釈

最初の最初ですね。人は動物である。から始まります。

人は動物、だから善でないときは不善に動き、この念がここになかったらあの念が別のところに生じているのでしょうか。ここに論理構造があるのでしょうか。

人間は万物の霊長といいます。上述のような行動をとる、様々なことを考えるということはむしろ人間と動物の違いを表しているように、私は感じてしまいます。

 

次、「善に動かざる時は必ず不善にうごく・・・」について

善とも不善とも呼べない行動というものは無いのでしょうか。善⇔不善 の二項対立は、中庸を良しとする儒学の教えには合わないような気がします。のちに出てくる心の在り方等では、善とも不善とも呼べない事柄について記述してあったように思います。

 

「この念ここ生ぜざればかの念かしこに生ず。種々転変して止まざるものは人の心なり。」について

 

これはその通りだと思います。人は一度に複数の物事を考えることは出来ません。

目の前にやるべきことがあったとしても、お腹が鳴ってしまい、自分のお腹が減っていることに気付き、今日の昼食・夕食について考え始めてしまったらもう大変。

目の前のことは全く手につきませんね。

 

なにか物を取りに別の部屋に行こうとしたら、その途中で何か考え事、もしくは気を引くような何かがあって、肝心の用事を忘れる。はて、私は何しにこの部屋来たんだっけ。

 

人は自分の事は自分が、自分の意志が決定している。そう思っているかもしれないけど実際は全然そんなんじゃないのでは?

 

では一体何が、私を動かしている?

人間はすべてがプログラミングされている。そんなことを言いたいわけでは無いんです。

もちろん自分の意志・理性といったものによって動く側面もあります。いまキーボードで打ち込んでいるのは私の意志(というよりも気まぐれ)。

 

でもきっとそれだけじゃない。

人間ってなんだろうね。そういうことを知りたい。

そのヒントが、この本には書いてある。そんな気がしてます。

のんびりじっくりと本シリーズやっていきます。

それでは。

 

 

前回の、天狗芸術論考

 

where1amnow.hatenadiary.com

 

天狗芸術論 考 (第0篇) 人生哲学と名言の宝庫

天狗芸術論とは

 天狗芸術論は、江戸時代に書かれた剣術書です。武道や剣道やっている人にとっては、比較的有名な本らしいです。

講談社学術文庫から、原文と全訳注のついた本が販売されていますね。

書店で、ピックアップされている様子も先日みかけました。

 

 
天狗芸術論・猫の妙術 全訳注 (講談社学術文庫)

 

あまり知られていない良書

 剣術書だから、現代に生きる私たちが読んでも、あまり得るものがないんじゃないか。

武道とか、剣道とかやってる人が読むならまだわかるけど・・・

といって敬遠されてしまう一冊ではないかと思います。

そもそも、「天狗芸術論」とかいうワケワカラン名前をみて、この本を読もうとする人はなかなかに変わった人間でしょう。

いったい誰がこの本を読むんだという話は、本書の解説で内田樹さんも述べています。

 

 しかし、この本の内容は、多くの人に知られるべきである

 

と、一読して私は思いました。

この心、洪自誠が持ってきた「菜根譚」を読み、その序文を記した人の心を諒解したような気がした。

2度目3度目に読んで新たな発見がある、今まで見えなかったものが見えるようになる、複数回の読み返しに耐えうる書であることが良書である必要条件と私は考えていますが、この本は充分すぎるほどその条件を満たしている。

 

生命の哲理を語るに神髄を窮めている。見識は高遠。

私が知りたいと考えていたことが、平易な言葉で説かれている。

人生という、死と生というテーマについて詳しく述べられている。

しかし言葉は平易であってもその意は深淵にしてつかまえることができない。

 

ここに、この本によってなにか得られるんじゃないか。

 

解説があったらいいのに 

 しかし、何度か通読しても、「なにかある」、「ここに答えがあるのではないか」という思いが浮かぶのみで、まだなにかを得られてはいない。

凡俗凡庸な一介の人間だから、致し方ない。語られる境地には、まだ遠いようだ。

ここで現代に生きる私、ゲーム世代の、インターネット時代の影響か、こう考える。

 

解説ないの?

 

インターネットで調べる。

結果:おそらくない、見つからなかった

 

やはりこの本は、一般にはあまり知られていなようである。

 

無いのならしょうがない。試みに私がつくってみよう。

 

 

私は武術も剣道もほとんどやったことがない。体育の授業で柔道をやったくらいである。

 

武とはなにか、当然何の知識もない。

 

私は多くの間違いを犯すであろう。であるから、私は謙虚に賢人たちによる訂正を受け入れよう。

 

 

世の人は、偉人賢人たちの名言を知りたがる・ありがたがる傾向が強いと思う。

その言葉の背景については、多くを知ろうとしない人が多数である。

 

つまりは彼らのエッセンスさえ知れれば良いと、そう考える。

私もその一人である。

 

ただ、たまには、背景についてもじっくりと考えを及ばすのも悪くないのではなかろうか。

天狗芸術論は名言の宝庫である。

考えさせられる内容に富む。

本書は200ページ程度の短い本である。

ゆったりと考えを深めていけたら素晴らしいことだと思う。

 

ということで、私の、私による、私のための天狗芸術論考察をのんびりとやっていくのである。

 

そして、多少の人間がこの本に興味をもってくれるとうれしい。

そして仮に、世に多くいるであろう深く広い見識を持った賢人がこの考察を読み、なにか間違いを訂正してくれようものなら、是非とも教えを請わせていただきたいものである。

 

 

 

 

 

 

その志を奪うべからざるなり(論語)

子曰く、三軍も帥を奪うべきなり。

匹夫も志を奪うべからざるなり。

訳(自己流):先生の仰ることには、大軍もその将軍をとって捕まえることはできる。しかし一人の人間の志を奪い取ることはできない。

 

匹夫とは身分の低い人などを表すときに使います。匹夫の勇という言葉もありますね。

 

大きな軍勢、勢力のある集団もそのリーダーなどの中心人物がいなくなってしまえば求心力を失い、意外ともろく崩れ去ってしまう。あると思います。

 

 

これに対して、一人の人間の、身分が貴かろうと、卑しかろうと、その内にある志をどうにかすることはできない。

例え多くの人がノーと言おうと、なにか強要をしてこようとも、そして環境がどう変化しても、自分の志をどうにかするのは自分にしか出来ないこと。

「外部から要請されたから変えました」

これは周りに影響され、「自分が」、志を変えてしまったのです。

周りがどうであろうとも、「自分が」、それに反応しない限り、志が変わってしまうことなんて無いのです。

全ては自分が考え、どう思うか次第。


匹夫も志を奪うべからざるなり。

ええ言葉ですね。


ただ、志を奪い取られないことと自分の考えに固執して人の話を聞き入れないのは全くの別物だから注意が必要ですね。

 


中学生、高校生の時に授業で読む論語、説教くさいし、内容も古くてお堅くてなんだかなあ、、、と思う人が多いと思います。

しかしこの論語、一読の価値は必ずあります!
もちろん、古くさくて現代には通用しないよ!といった箇所もあります。でも驚くべきは、現代にも通用する内容も書いてあるということです。

紀元前に生きた人の主張にですよ。
また、お気に入りのフレーズにもきっと出会えるはずです。私の座右の銘リストに、論語の言葉がいくつも入っています。

論語が、古典が必要か否かは自分で読んでみたうえで結論するのが良いのではないでしょうか。

他人の主張に乗っかるのではなくて。

 


論語 (岩波文庫 青202-1)

何者なのか

 自分とはなんぞや。

いったい何者なのか。

何者になるのか、何者にもならないのか、何者にもなれないのか。

わかりませんねえ

考えたところで答えは出るのか。

 

人間には認識できないものが数多く存在する。

 

人間って、基本的に見ること、聞くことくらいでしか物事を認識できないから。

 

世の中には、見ることもできなければ聞くこともできないことばっかり。

 

こういったことを考えることに、いったい意味があるのか。

おそらくすっぱりと答えが出そうにない問題に対し、時間を使ってしまっている。

 

未来知られず、過去は及ばず。

 

と言うでしょう。いま、ここに集中すること、これが大事なはず。

その方が捗るでしょ

 

でも考えてしまう。それが人間ってものなのかなあ。

 

【感想】ユダヤ人大富豪の教え 自己啓発されます

 読んだ本の感想でも書いてみましょうか。

 

ユダヤ人大富豪の教え』 本田健 著  だいわ文庫

 
ユダヤ人大富豪の教え 幸せな金持ちになる17の秘訣 (だいわ文庫)
 

ユダヤ人大富豪の教え 幸せな金持ちになる17の秘訣 (だいわ文庫)

 非常に有名な本ですね。本屋さんに行けば必ず置いてある。インターネット上でも多くの人々がオススメしています。日本国内だけでなく海外でも出版されているようで、その部数は合計で300万部を超えているとかなんとか。

 

 なぜこれだけ多くの人に支持されるのか?

 

答えはカンタン。カンタンだからですねきっと。非常にスムーズに読めます。読んでいてするすると内容が入ってくる。内容がわかればそれは気分が良いです。しかもその内容が自己啓発、ポジティブでなんだかやる気が出てくるようなもの。するっと内容が入ってきて自己啓発される。素晴らしい。

 

多くの人に支持されるためにはこの点が重要でしょう。

 

それは、「多くの人が理解できる内容である」ということ。

 

真剣に考えて本を読むことってなかなかないでしょう。ワケワカラン哲学の本とか、よほどの人でないと読もうとしないでしょう。

 

ポピュラーな本というものは、誰でもわかる、平凡なアタマでも理解できる内容が書いてあるからこそポピュラー足りうるといった側面があったりなかったり。

 

だからもし、儕輩から抜きんでるようなことを学びたかったら、多くの人が苦も無く理解できる程度の本を読むにとどまっていてよいのですかね。

 

まあなんにせよ、文章が分かりやすいです。そして、自己啓発効果があります。

一読の価値ありだと思いました。

 

本書のいたるところに、「世界最強の商人」なり「7つの習慣」なり、カーネギーの著作から影響を受けたと思われる点がありますね。

原点(原典?)主義、7つの習慣を読めば他を読む必要はない!みたいな主張をする人もいますが、

 

一冊の本を読んで、他の本の主張とつながる。この感覚、私はキライじゃないです。